いきる、ということ
むかし、いきる、ということについて
詩を書いたことがある。
当時好きだった学校の先生に見せたら、学級日誌?みたいなのに掲載してくれて、クラスのみんなにその詩を紹介してくれた。
作者は匿名にしてくれたけど
わたしと先生だけの秘密、みたいでドキドキして嬉しかったことを覚えてる。
変な意味じゃないです。
わりかし、わたしはすぐに人に懐くし、すぐに人を好きになる。そして人からも懐かれやすくて、良くも悪くも好かれやすい。
今になって思うのは
わたしにとって生きることは、人と関わることそのものだということです。
詩を書くときも必ず対象があって、
自己完結のようなものは一つも書けなかった。
むかしから、人と人との間に在る、若しくは、人と人との間に生まれる心の動きに心底魅了されていたように思う。
関心を寄せれば寄せるほど、相手からの関心が返ってくる。
好きになればなるほど、一緒にいるのが楽しくなる。
笑ってくれたり、喜んでもらえたり、時には涙して感謝されたり、自分のこと以上に相手のことを労わるほどに愛情を覚えたりしながら、わたしはそういう人の様がなにより美しいと思ってた。
自分のことなんかあまり考えなかった。
それよりも、大好きな先生、クラスメイト、部活仲間、家族、時には幼いながらも好きになった男の子、ずっとずっと人のことを考えていた。
それが楽しかった。
いつもまわりに誰かが居て、当たり前に泣いたり笑ったり怒ったりして、お互いの中にお互いが生きていた。
わからないけれど、わたしは生きることが好きだった。
でもいろいろなことがうまくいかなくなって、次第に小説や音楽の世界に逃げ込むようになった。それと同時に人との関わりが煩わしくなった。
夢見心地でいられるファンタジー小説を読み漁って、
憤りを絶叫する音楽に感情を委ねた。
肉体の限界まで走った。
今思うとあの時間が自分を壊したと思う。
でも、誰も止めてくれなかったし、誰も隣にいなかったから、止めることなんか最初からできなかったんだと思う。
いままで、美しさに生きてきた自分に初めて芽生えた絶望と憂鬱は、その後も執拗につきまとった。
でも、悪いことばかりじゃないと思う。
良くも悪くも、諦めのいい性格になった。
欲張らない、いつ死んでも悔いなし。
変わったことばかりでもない。
わたしは今でも人の中に生きたいと思っている。
それはほとんど無意識のうちに。
1人で生きていることに価値を見出せない。
だから、誰かの心に、誰かの中に、自分の生きていることを見出したい。
そうやって、ときには舵の取り方を誤ったりしながら、いろんなひとと関わってきた。
だけど、とぎれとぎれの関わりに、生きることが本当に喜びで在ると思えるほどの、価値を感じていたかと言えばそうではない。
今でもそう。
だけど、死ぬことよりかは、こうしてとぎれとぎれでも、人と関わりながら、生きている方がいいと思ってる。
その関わりが喜びになるまで、ある程度時間も必要だから。
むかしのように迸る情熱はないけれど、
でも、もっと優しく強くなったら、もっともっと誰かを生かすことができるかな。
そうしたら、わたしの人生も、悪くないなって思えるかも。
重たい人間なんです。
価値のある人生を送りたい。
最後に穏やかに笑って死ねたらそれでいい。
あなたのおかげで、幸せでしたって、言ってもらえるくらい、生きたいけどね。