ある一定の死にたさ
18の頃からある一定の死にたさがある。
満ち引きはあれどそれがなくなるということはなくて、常に何かを引き金に溢れ出す。
それは些細な他人の言葉や態度であったり
自分の抑え難い欲望であったり
この世の邪悪さであったりする。
死ねば終わると思っていた頃
苦しくても終わりが来るのなら良しとしていた。
生と死についての深い探求の末に
99.9%の確率で死後の世界を認識するとき
生きることが絶望に変わった。
いつか終わるという刹那の中に
幸福を見出す作業がひどく憂鬱で面倒なことであるように思われた。
死にたさを抱いてもなくならない欲望。
生きるということにかかる維持費。
意欲や意志が人の根本的な原動力であるなら、その意欲や意志の源は愛情であると感じてきた。
そのたびに、人から愛を求めるある種の癖、思考回路が身について、それによってまた絶望を繰り返す。
なにがそんなに虚しいのか。
なにがそんなに足りないのか。
否、何かが多すぎるのか。
美しい言葉で丸め込もうとしても
美しく生きられない自分にぶつかるのである。
ある意味この厄介な死にたさを
楽観的に捉えるとき
いつ死んでも構わないと、失うもののない者の強さを手に入れたようにも思う。
愛情を人に求めるべきではない。
愛したいものは何か、愛によってなにを残せるのか
どうしてこうも人の心に左右されてしまうのか
わからないこと、理にかなっていない感情の処理はいつまでも終わらないので、なにもしなくても空白に押しつぶされてしまうのである。
ゆえに、ひとつなにか、理由があればよい。
あなたは精神疾患です。
そう言い下されて
全てそのせいにしたい。
だから、こういう感情があるのか。
そう思った方が追求することから解放される。
あとはどう生き延びるか。
お金はどれくらい必要で
余命はあとどれくらいで
必要な人は誰で
なにをすれば心が穏やかになるのか
こどもなんか産みたくないのに女としての生理的な営みと欲望だけは立派にある。
暇だから誰かに会いたいけれど
誰にも会いたくない気もする。
掘り過ぎて振り出しに戻ったか。
とりあえずこの憂鬱な腹痛が早くおさまりますように。